たわら まち
日本語には天候にかかわる言葉が多い、四季の移る変わりがはっきりしていて、空や、雨や、風の表情が豊かだからと言うのがその理由だろう。
が、逆に豊かな日本語によって自然の様々の表情を教えられることも多い。
そんな風に名づけられていなかったら、ただの空であり、ただの雨であり、ただの風としか感じられなかったと思うことがよくある。
言葉によって日本人は自然の豊かさをさらに美しいものにしてきたようだ。
例えば花曇という言葉がある。桜が咲くころの曇りがちの天気を表している。
確かにそのころというのはすっきりしない曇天が多い、せっかく花が咲いて温かくなってきたっていうのに、あーあなんだか憂鬱の色の空だな。
青空が大好きな私は春になると何回となく、曇り空を恨めしく思う。
が、あるときそういう空を花曇というのだ、といつことを知った。
花曇、なんてやさしい響きの言葉だろう。
そう思って空を見上げると一面に広がる雲もなかなか風情のあるものに見えてくる。
われながら、おかしいくらいの変わりようだ。
まるでそれらの雲は強すぎる日差しから桜の花びらを守ってくれているようにさえ感じられる。
あるときには、雲そのものが空の引きつめられたふかふかの花びらのようにも見えた。
花曇という言葉は憂鬱な空の色をそんな風に変わってしまう魔法だった。
菜種梅雨もまた私の大好きな言葉の一つだ。
菜の花の咲くころにしとしとと降る雨、夏前の本格的な梅雨ほどではないけれど
確かに雨が続くことがある。
もちろん、雨よりも晴れのほうが好きな私は、このころの長雨を快く思っていなかった。
が、花雲と同じように菜種梅雨という言葉を知ってからはそれほどいやではなくなった。
今日もまた雨か、仕方ないわね。菜種梅雨だもの。
菜種梅雨と口にしてみると途端に優しい気分になる。
きっと、菜の花はこの雨を喜んでいるに違いない。
すべての植物がこの潤いを楽しいんでいることだろうと思われてくる。
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